無限とは結局有限である

社会

禅問答のようなタイトルについて

みなさんは無限と言われて何を思い浮かべるでしょうか。

数学での無限の概念や、宇宙も無限といえるほど、人間には想像の及ばない広さを持っています。

特に、数学では、無限とみなすことで式の処理が簡単になったりします。

ただ、無限とみなすことのそもそもの前提について、考えが及んでいないというか、当たり前過ぎて、見過ごされがちな点があると感じたので、鬼滅の刃を例に考察したいと思います。

鬼滅の刃 無限列車編を観て思ったこと(ネタバレ注意)

無限列車に乗り遅れる

劇場版 鬼滅の刃 無限列車編が上映されていた当時、自分はアニメ版でしか鬼滅を知らず、アニメを見ているうちに、鬼の概念が興味深く、映画も見ようと思い、アニメを消化していました。

やっと1期見終わった!この日に映画館に行こうかな、と思っていたところ、まさかの上映終了していた。しかも1週間前に。

乗り遅れました。無限列車に。

さようなら、煉獄さん、炭治郎…

次の列車をご利用ください

上映終了の次の週に予定がちょうど空いたので、当時は久々の映画や!とワクワクしていました。

ワクワクを裏切られることほど、がっかりするものはこの世にありません。

他のアニメも見て気を紛らしていましたが、ある日Twitterにこんなツイートが。

よっしゃ!次の列車来たったわ!と。

無賃乗車した結果

無賃乗車勢として見ながら、CM毎にTwitterで実況している人達に紛れてタイムラインを眺めていましたが、気になるツイートが。

この点、自分の見解ですが、無限列車編の無限要素って鬼の再生能力のこと、つまり鬼滅における鬼の仕様のことではないかと。

特に、無限列車が鬼に乗っ取られて、鬼の本体そのものになるという描写です。

鬼が死なない限り、走り続け、人々を襲う。

炭治郎たちは何とかして鬼と化した無限列車に攻撃し、列車は脱線、停止します。

これは、「地に足を付けない象徴」として首を斬らない限り「無限に」生き続ける鬼が描写されていると感じました。

ですが、物語の展開としては、無限列車はズタボロになる。

つまり、作者の意図は、地に足の付かない存在は結局は無限ではなく、有限なのだ、というものではないかと。

まとめ

自然科学としての数学も、結局は人間の頭で定理を導き出し、その中で「無限」という概念は、人間の頭では処理しきれず、コンピュータでもやはり処理はしきれない(計算の精度は上がっているものの)ものを、「みなし」、「近似」して処理するわけです。

それでも結局、無限と近似して処理する主体も、人間という「有限」の存在です。

無限列車編では、数学批判ではないと思いますが、地に足の付かないものは、有限なリソース(鬼の生命線である首)がボトルネックとなってしまうから、無限列車が破壊されたという落ちになったんだとふと思いました。

有限リソースの問題ほど、家計から国の財政まで、社会を貫く問題はないと思います。

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